どうも、なすです。
久しぶりの「ひとりごと」です。
相変わらずの偏重思考っぷりに加えて、乱筆乱文ですのでご了承を。
さて。
まずはこちらの記事から。
YouTubeの“ヤラセ”騒動 孤独な少女、実は虚構 (DODAの業界レポート@MSN)
要約すれば映画の宣伝のためのものだったと言うことなのですが。
ここで俺が思ったのは果たして
これはやらせと言うべきものなのだろうか、と。
「16歳の普通の少女」とうたっていて、本当は「19歳の女優の卵」というわけでした。
しかも、このコンテンツ自体がこれから製作する映画のバイラルマーケティングだったと言う。
これはやらせではなく演出ではないでしょうか?
事自体はアメリカでの話で、見ていた人達の大半は勘付いていたようなので大きな騒ぎにはなっていないようですので、それはともかく。
俺が引っかかっているのはこの記事のタイトルです。
例えば、お笑い番組でのドッキリ的な事象をあらかじめ打合せで知っている状況にも関わらず、あたかもドッキリで引っかかりましたとリアクションを取る芸人さん。
これは、演出ですよね。
しかし、そういう「バラエティに付き物の演出」をやらせであると批判していたことがありました。
それをいうなら、実際はぬるいお湯なのに熱湯に入っているかのようにリアクションを取るのもやらせになりますね。
例えば、確実な裏づけもなく正確なデータも無いにも関わらず、あたかも真実であるかのように放送する。
これはやらせですよね。
まぁ、どっちかと言うと風説の流布になるかもしれませんが。
果たして、
どこからが「演出」でどこからが「やらせ」なのか。俺にも良くわからないところです。
しかし、境界線が曖昧であれ、あからさまに違うものと言うのははっきりと解るはずです。
しかし、それを「やらせ」と言う。
では、ドラマもすべてやらせと言えるのではないか。
ドラマは全編すべて虚構の話で演者は決して役の人間とは限らない。
これは演出であってやらせではないのは明らかです。
ただし、前出の例をとればこれもやらせと言えるわけです。
真実か虚構か。
どちらを視聴者が求めるかによって演出かやらせか変わるものだと思います。
お笑いで真実を求めるか。
情報番組で虚構を求めるか。
そこに尽きるのでしょうね。
真実のように見せる虚構。虚構のように見せる真実。
表現の自由をうたうのであれば演出をやらせと言って叩く材料にはして欲しくないものですね。
最後に。
>日本の「電車男」も、プロの手による創作だという見方が根強いのである。
(本文抜粋)
真実は本当に必要なのでしょうか?
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